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1972 (昭和47)年7月天草豪雨災害

1.災害時の気象状況
九州は6月3日に梅雨入りしたが、6月は17日から18日にかけて県南部から中部に大雨を降らし、22日から23日、26日から27日にかけて平年よりやや多い降水量が見られた。7月6日朝から昼頃にかけて阿蘇山から天草を結ぶ幅広い線状で激しい積乱雲が多発し、人吉地方にあった雨雲は太平洋高気圧の強まりとともに北上し、天草上島から城南町方面で集中豪雨となった。6日早朝から雷を伴った強い雨が県下ほとんど全域にわたって降り、天草上島においては11時から13時まで100mmを超す記録的集中豪雨となった1)。時間最大雨量は龍ヶ岳で12時に130mm、松島で13時に110mmを記録した。また7月3日から6日までの降水量は竜ヶ岳526mm、松島384mm、倉岳367mmを記録した。一方、天草下島の牛深は3~6日で50mm程度に過ぎない。同じ天草でも降水量が大きく異なっており、被害も天草上島の姫戸町、竜ヶ岳町、倉岳町、松島町に集中している。

図-1 1972年7月天草上島豪雨災害時の降水量

2. 被害の状況2)

7月3日から6日までの大雨で、天草上島、宇城、球磨地方及びその他で死者行方不明123名、被害総額480億円を上回る被害を被った。天草上島は災害救助法が栖本町・松島町・倉岳町・竜ヶ岳町・姫戸町に適用された。各町の被害一覧表を表-1に示す。

天草郡姫戸町では念珠岳(503m)の一角が崩落ち、西川内地区(板の原部落)で27棟中26棟が巨岩と土砂と濁流に押し流され21名が死亡。本郷地区でも多数の死者を出した。またヤマハ天草工場及び下請の公進ケミカル工場が裏山からの土石流に襲われ6名が死亡した。このほか牟田、永目、姫浦地区等においても同様な災害が発生した。倉岳町では倉岳(682m)からの土石流により西原部落が直径3~4mの巨岩に押し流され、10名が死亡したのをはじめ、浦、棚底、宮田地区でも災害が発生した。松島町では倉江川の増水と周囲の山からの土石流により教良木地区で水浸しとなり、43棟が全壊し、4名が死亡。

表-1 1972年7月天草上島豪雨災害被害一覧表

3. 地形・地質

天草上島は前者として白岳(372.7m)、鹿見岳(286m)、竜ヶ岳(469.8m)を結ぶ線と次郎丸岳(397.1m)念珠岳(502.8m)の線と二本の平行脊梁が海岸線に平行に走っている東側の部分と、後者として中央部に老岳(586.2m)倉岳(682.2m)動鳴山(495.0m)の三者が鼎立している西側の部分に分かれる3)。前者の大部分を占める地質が姫浦層群(中生代後期白亜紀)、赤崎層(頁岩) (古第三紀始新世)、白岳砂岩層(古第三紀始新世)からなる。島の東南海岸は山が海岸近くに迫り、急勾配で北西斜面は緩勾配である。典型的なケスタ地形をなしている4)。一般に背斜部は浸食に弱く、向斜部は浸食に強い。また堆積岩では砂岩や礫岩が頁岩に比べると浸食には強い。竜ヶ岳は向斜の中軸部で、砂岩からなっているため高い峰を形成している5)。後者の西側部分は白岳砂岩層の上に乗る教良木層(砂岩・頁岩層)が広く分布し、それに火成岩の貫入があり、その貫入岩の岩種はひん岩類(新第三紀中新世)で、比較的浸食に弱い頁岩類と浸食に強い貫入岩とが入り乱れ、凸凹した地形をしばしば造っている3)。その東側の倉岳町棚底一帯は土石流堆積物でできた扇状地性の地形地質をなしている。

 

4. 山地の荒廃状況

山腹崩壊:4027ヶ所、土石流:139ヶ所、面積:464.4ha、不安定土砂量:334万m3

やや急峻な地形と地質が古第三紀および中生代の堆積岩からなっており、断層や破砕帯が多く、豪雨によって容易に荒廃しやすい。山地の崩壊が土石流の発生を通じて保全対象に対して直接的に被害を及ぼす原動力になった。特に保全対象との距離が短く、被害に密接に結び付くという特殊な社会的環境があった6)

1)山腹荒廃地

図-2に見られるように、南東海岸線に並行して二本の硬い砂岩の脊梁が断続して走っている。東は金比羅山、鋸岳、白岳、龍ヶ岳に続き、西は千厳山、太郎丸岳、次郎丸岳を経て念珠岳脊梁へと続いている。白岳層に属する硬い砂岩層が最上部で白亜紀の黒灰色の頁岩層と最下部第三紀赤崎層の赤紫色頁岩層に載っているが東の脊梁は背斜軸上にあり、西の脊梁は単斜構造で、北西方向に傾いている。崩壊地は標高200~300m付近に多く発生している。この位置が赤崎層、白崎砂岩層の分布、または中生層との境界をなす付近である7)

2)渓流荒廃地8)

a)標高300~600mの山地から直接海岸に向かって流下する独立した小水系が多いが、渓流荒廃地の大部分はこのような小水系に発生。渓流荒廃地に伴う水系の延長は2~3kmと極めて短く、このため渓床勾配15°~25°と急である。

図-2上天草地質図(熊本県地質図編纂委員会:熊本県地質図に加筆)

 

b)渓流荒廃地は主として山腹崩壊の土砂が原因となって土石流が発生、そのため、崩壊地のない水系ではほとんど渓流荒廃地はない。すなわち、単なる流水の浸食による渓流荒廃地は発生していない。荒廃の甚だしいのは主として古い崩落や崖錐の部分で、その浸食によって大量の土石が流下している。

c)龍ヶ岳、念珠岳の山頂部には白岳砂岩層の一部が残っており、渓流荒廃地にも直径1~3mまたは稀にそれ以上の巨大転石がみられる。

d)地質の如何を問わず特に遷急点より下流部の流下地帯及び堆積地帯には大量の不安定土砂が堆積し、将来浸食によって流出の危険が予想される。

e)荒廃渓流の多くは山脚部の崖錐堆積または扇状地を流下、それらの攪乱浸食によって大量の土石が流下しているが、特に人家の密集する平坦地や海岸までの距離がきわめて短く、土石流が人家を直撃するという被害形態をとるものが多い。

f)土石流による渓岸浸食が多い。山腹の崩壊地が多い水系では荒廃渓流の規模が大である。

g)巨大転石(直径2~3m)は平時には渓床浸食に対して大きな防止の役目を果たしているものの、極めて異常な豪雨に際して、特に土石流が発生したような場合は大きな破壊力となる。

h)荒廃を一層助長したものに周辺の土地利用の問題がある。一般的には山地に属するような扇状地や崖錐堆積部分までも耕地として集約化された利用がなされており、林地に比べて浸食に対する抵抗力が弱い畑地であったため、荒廃が助長された。

5. 崩壊および土石流の発生と地質構造との関係

3章・地質で述べた前者に属する地域、あるいは後者に属する地域で、地質が異なっているにも関わらず崩壊・土石流の様相が驚くほどよく似ていることである3)

(1)崖錐の崩壊である。

(2)崩壊の上部は3.地質の”前者”に属する地域では白岳砂岩層、“後者”では貫入岩体である。すなわち、崖錐はこれらの白岳砂岩や貫入岩の下部から堆積していて、崖錐の頂部が崩壊の頂部になっている。

(3)崖錐の堆積は厚い。例えば姫戸町牟田江後川の痕跡では4~5mである。なお、崖錐も頂部に行くと1m程度まで薄くなる。

(4)崩土はおおむね土石流となって流出している。土石流堆積物が二次支川まで見られる。

(5)土石流の通過で渓流の基岩は滝壺状・階段状に露出し、また、土石流において巨石は”前者”で砂岩、”後者”でひん岩である。

(6)土石流の直撃は免れても、強雨によって土砂流が起こり、海岸堤防まで到達し、これによる被害も多い。

(7)崩壊した崖錐はいずれも谷頭に相当するが、それも常時の湧水点よりはるかに高く、沢を離れた山腹という箇所である。

 

 地質構造の分類4)

(A)砂岩山頂型(白岳・竜ヶ岳タイプ)


図-3 地質構造の分類による模式図

(B)砂岩斜面型(念珠岳タイプ)

白岳砂岩層の塊状砂岩が山頂を占め、その下位に赤崎層の赤紫色凝灰質頁岩と礫岩を挟んで姫の浦層群の頁岩~頁岩砂岩互層が厚く、山麓部は緩やかな斜面を作っているが、山頂部に近づくにつれて赤崎層とともに急斜面となり、白岳砂岩層の垂直的急崖となる。山腹斜面においては姫の浦層群、赤崎層は風化層が発達し、谷底および谷壁に長期間にわたって累積した二次堆積物の量も多い。今回の崩壊状況を見ると、大部分の崩壊地が赤崎層や姫の浦層群に先端を発し、谷底部および谷壁に累積していた二次堆積物が削剥されている形跡が著しい。惨害をもたらした巨礫流は二次堆積物中に蓄積されていた白岳砂岩層起源の岩塊が再び流下し、再堆積したものと考えられる。

砂岩斜面型は白岳砂岩層が山頂部にあるという点で、南東側斜面にとっては(A)とほとんど同じ条件であるが、北西側斜面にとってはその地形斜面が北西に向かって傾斜する白岳砂岩層の上盤とほぼ一致するという点で趣を異にする。北西側斜面は平均20°~30°のやや緩やかな勾配を示し、左右非対象型の山塊となっている。谷底には白岳砂岩層の層理面が露出していることが多くすべりやすいので、滞留している二次堆積物の量は南東側斜面に比べて少ない。南東側斜面では(A)のタイプと同様に二次堆積物の中間堆積量が多く、大規模な土石流を発生させ、かつまだ不安定な状態で残留している量も軽視できない。

(C)火成岩山頂型(倉岳タイプ)

火成岩山頂型は表層の物理的な形状としては(B)のタイプと類似するが、ひん岩~斑岩等の第三紀貫入岩類が山頂部を構成し、山腹の各所に岩床状又は岩脈状に同岩類が露出し、教良木層と交互している点の違いがある。南東側斜面の中腹から山頂にかけての斜面勾配が45°を超えているのに対し、北西側の斜面ではむしろ平坦面的な勾配を示している。また、両斜面とも中腹から山麓部にかけて扇状地及び崖錐の発達が著しく、特に南東側斜面において著しい。これらの扇状地及び崖錐の発達は過去の地質時代における頻発的な崩壊と土石流の遺跡であり、棚底湾に面する集落の多くは土石流堆積物の上に立地しているといえる。

(D)変成岩型(東風留タイプ)

変成岩型は竜ヶ岳町東風留付近に典型的にみられる。海岸に接して片麻岩~結晶片岩からなる高度200m以内の丘陵が段丘状に発達しているが、この部分の山腹の崩壊~土石流の大部分が変成岩類岩体において発生している。

 

6. 天草の豪雨災害と土地条件4)

今回の天草の災害は何といっても、時間当たり雨量強度が100mmを超える記録的な集中豪雨によるものである。しかし、地質およびその反映としての地形による条件や水陸の分布状況によって、差異・特徴を見出すことができる。最も被害の大きかった姫戸町や倉岳町の中でも姫ノ浦港周辺や棚底地区の旭・横道などの集落は崩壊~土石流地帯の真中にありながら局部的な被害に止まっている。前者は土石流の巨礫を供給する岩層がない部分であり、後者は過去の土石流によって形成された扇状地が少なくとも今回までは安定状態に維持されていたことを示している。また、ほとんどあらゆる河谷及びその河口部が土石流に見舞われているが、岬状あるいは台地状の岩盤部分はほとんど致命的な破壊を受けていない。ただ白岳砂岩層や第三紀貫入岩類の南東側斜面においてはまだ不安定な状態で巨礫を含む二次堆積物残留しているところがある。

今回の崩壊~土石流を発生させたものは大部分が長年月の間に徐々に山腹斜面に累積した二次堆積物と風化層であるから、いわば崩壊・土石流のエネルギー蓄積とまれにみる集中豪雨が交わったことである。過去には松島町太原地区には大正初期に、倉岳町宮田地区では昭和11年に被災の経験がある。河谷の両側の段丘面に残された巨礫群や崖錐・扇状地群の存在は第四紀後半以降における大規模な崩壊・土石流の反覆を物語るものである。

7. 被災時の写真

航空写真提供:上天草市龍ヶ岳町

「上天草市姫戸町:写真で見る姫戸の歴史、被災、そして復興へ」掲載写真より

間一髪、奇跡の避難 姫戸小牟田分校の児童64人、鉄砲水、校舎を直撃 濁流の中 見事なチームワーク(昭和47年7月9日付 熊本日日新聞掲載)

それは奇跡というよりほかなかった-。

天草郡姫戸町の姫戸小牟田分校は、山津波の直撃を受けながら、中にいた子供たちは直前に脱出に成功、間一髪で難を逃れたのだ。先生と子供たちの見事なチームワークが奇跡を呼び込んだ。集中豪雨の上天草は多くの犠牲と進まぬ復旧に重苦しさが立ちこめている中で、「牟田分校の全員無事」のニュースはさわやかな風を吹き込んでいる。

部落の最も高台にある同分校に山津波が押し寄せたのは6日の午後零時20分ごろ。楽しい給食の直前だった。分校裏の通称”竹山”から流れ落ちた雨は校舎の回りにあふれた。突然、床から水がふき出し、「メリメリ」という音をたてて校舎は「く」の字型にへし曲った。

中には64人の児童と6人の教職員がいる。「もうあぶない」-こう直感した分校主任の増永公彦教諭は比較的安全な南側廊下に全児童を集め。「勝手な行動をとらないよう」注意したあと避難に移った。運動場は胸までつかる濁流。誘導の先生が先に飛び込み、そのあとに子供たちが続いた。下級生は、からだの一番大きな平田実君ら6年生が手を引いた。泳ぐ者、流される者・・・・。全員がそれぞれ安全な場所にたどりついたときだった・・・「ゴー」という轟音とともに”鉄砲水”と巨岩が校舎を襲った。校舎はアッと言う間に100メートル近くも押し流された。児童たちが避難を始めてから20秒もたっておらず間一髪の”セーフ”。

この間、「分校があぶない」ということで、父兄や消防団は下の方から心配そうに見守っていたが、手のほどこしようもなかった。子供たちは午後1時には安全な高台に集まり、一人が足に軽いケガをしただけで、64人の全員の無事が確認された。駆けつけた父兄は「よかった、よかった。よく助かった」とうれし泣き。父兄の一人、山内忠男さん=漁業=は「ハラハラしながら祈っていたが、子供の元気な顔を確かめるまでは助かったと信じられなかった。全くの奇跡だ」と大喜び。

牟田地区は姫戸の中でもへき地。150戸。約500人が漁業で生計を立てているこじんまりした部落。それだけに団結も強い。”奇跡の生還”を成功したのも先生と生徒、上級生と下級生の呼吸がピッタリ合ったからだ。増永教諭は「子供たちがみんな先生の注意を守ってくれたのが一番大きい」と言う。

「あと30秒脱出が遅れたら・・・。まずたすからなかったろう。考えるだけでゾッとする」とある母親。それだけに喜びが大きいのだろう。復旧作業はどこよりもピッチが上がっていた。あまりの大惨事に上天草地方はさながら”地獄絵図”。住民の足取りは重い。その中での牟田分校の明るいニュースは、姫戸だけでなく龍ヶ岳、倉岳町にも伝わり、暗く沈みがちな島民にいちるいの明るさを伝えた。

 

天草大水害記念日に(平成227月、上天草病院より提供)

昭和47年7月6日、今日から38年前天草を豪雨が襲った。未だかって経験したことがない未曾有の大雨。ここ龍ヶ岳も例外ではありませんでした。1時間の雨量が100ミリを越え、1日の雨量は400~500ミリに達したといいます。死者数は天草全体では120名くらいでしたが、龍ヶ岳でも30数名なくなったのではないかと思います。上天草病院では2名の職員がなくなりました。1人は看護師、もう1人はフードの調理師です。2人とも休みで家に待機していた時この忌まわしい災害に命を奪われました。しかし入院患者に一人の犠牲もなかったことは奇跡だったとしかいいようがありません。

その日何が起こったのか

・局地的大雨。天草市から見た龍ヶ岳方面の空は真っ黒の雲に覆われていたそうです。バケツをひっくり返したような雨。雷が鳴り、電線が切れ、そこから火花。

・山は山津波、海は平穏。小島に避難(小屋河内の人々)

・地下フードは土砂で埋まる。学生寮に取り残された1名の学生は職員によって救出された。巨石8トンが外来廊下に突入。一週間後爆破。根こそぎの木々が渡り廊下にふさがり、耐えきれず廊下が流された。それが学生寮を一気に破壊し、飲み込んだ。

・車が埋まった。車が流された。電話が通じない。院内全体が泥沼状態。

・火事場の底力。屋上で武者震い。御所浦に救援を求めに行ったがなかなか信じてもらえない。

被災後の様子

・被災翌日から外来診療を行う。(朝5時から排土作業)嘘のような快晴。

・婦人会からのおにぎり差し入れ。検査室での炊き出し。膝下まで冠水状態。

・道路は寸断。海は流木で海上交通も危険で難しい。学生寮を道路から撤去。通帳、財布、衣類、本が出てきた。40日間の排土作業。一輪車でまめだらけ。

・トイレは山水で流しながら使用。洗面は山水、雨水。

・夜はロウソクと、懐中電灯の生活。一週間後電気が灯る。

・救援物資、薬品が船で送られて来た。職員全員で運ぶ。ヘリコプター、船舶での物資輸送(龍ヶ岳中学校)

・本当の水が飲みたい。ミネラルウォーター、おにぎり、漬け物ばかりの食事で疲労困憊。(栄養失調状態)

・学生は寮を流され持ち物全てを失う。着の身着のまま。1~2週間着替えなしの状態。

・寝る場所がない。東風留港自衛隊の野営風呂で入浴。

 

参考文献

1)熊本県林務部、昭和47年天草豪雨災害保全計画報告書(天草上島地区)、pp.50-51、1974

2)熊本県林務部、昭和47年天草豪雨災害保全計画報告書(天草上島地区)、pp.54-55、1974

3)吉岡良朗(土木研究所)、3.昭和47年7月豪雨による熊本県天草地区の災害、地すべり、Vol.9,No.3、pp.28-31、1973

4)木野義人(地質調査所応用地質部)、天草の豪雨災害と地質、地質ニュース、No.222、pp.4-11、1973

5)熊本県林務部、昭和47年天草豪雨災害保全計画報告書(天草上島地区)、pp.14-20、1974

6)熊本県林務部、昭和47年天草豪雨災害保全計画報告書(天草上島地区)、p.59、1974

7)熊本県林務部、昭和47年天草豪雨災害保全計画報告書(天草上島地区)、pp.74-79、1974

8)熊本県林務部、昭和47年天草豪雨災害保全計画報告書(天草上島地区)、pp.60-61、86-88、1974