1953(昭和28)年6月26日の白川大水害1)
はじめに
昭和28年は雨の多い年で6月上旬の台風2号が梅雨前線を刺激し大雨が降り(阿蘇341.9mm、熊本244.3mm)、6月中旬には前線の停滞で阿蘇278.9mm、熊本174.5mm、6月下旬の大水害時には阿蘇785.8mm、熊本629.4mm、さらに7月上旬、中旬にも大雨があり、この年の梅雨期間の総降水量は阿蘇2200mm、熊本1500mmを越す非常に雨の多い梅雨であった。
中でも6月24日から29日の豪雨は26日の日降水量が阿蘇で432.3mm、熊本で411.9mmと未曽有の豪雨で、阿蘇地方での山地崩壊に伴う土砂(よな)が黒川・白川に流れ込み、立野で白川として合流し、一気に中流域から氾濫を繰り返し、下流域の熊本市内に流れ込んだ。
1.水害発生
6月26日は朝から熊本市や白川流域で強い雨が降り、白川沿線では各地で浸水、斜面崩壊等が発生
11時40分頃より 熊本市内低地で浸水始まる
14時ごろ、阿蘇中岳5合目付近で土石流発生、黒川が濁流と化し、黒川の氾濫で阿蘇郡宮地町をはじめ阿蘇谷では広い範囲で浸水。
14時20分 代継橋、警戒水位に達する
15時ごろ、代継橋付近では濁流が容赦なく家々も飲み込んだ。明午橋は激流に洗われ流失寸前。
15時05分 国鉄運行停止
16時25分頃 市内低地各所で大浸水、がけ崩れ
17時15分 安巳橋流失
17時30分 坪井川左岸、清水町堤防決壊
17時40分 小磧橋流失
18時30分 白川蓮台寺橋上流右岸堤防決壊
18時50分頃 白川蓮台寺橋上流左岸堤防、蓮台寺橋下流右岸堤防、薄場橋上流両岸堤防が次々決壊
19時20分 薄場橋下流右岸堤防決壊
21時30分頃、上通町では胸の高さまで浸水
21時40分 代継橋(鉄筋コンクリート)流失
21時45分 大江町の弘済寮流失(死者52名)、子飼橋上流右岸堤防(一夜塘)決壊
21時50分 子飼橋に流木がかかったため水位が上昇し、左岸を溢れて大江町の家屋130戸(200人余)が流失
23時40分頃、上通町、軒まで浸水、
2.白川大水害被害状況
死者行方不明者:422人、罹災者総数:388,848人
流失及び全半壊家屋:9,102戸、浸水家屋:31,145戸
農地流失埋没:13,717ha、農地浸冠水29,797ha
橋梁流失:85橋(熊本市内14橋)
被害総額241億円
3..復旧開始
6月27日、降り続く雨の中、救助・復興作業が始まった。水と泥と流木で埋め尽くされた熊本市内のいたるところで市民が泥土の除去を開始し、米軍や保安隊も道路の清掃、橋梁の流木の除去作業を行ない、学生達も夏休み返上で復旧作業を行ないました。道端には1ケ月以上経っても泥が渦高く積み上げられ、捨て場に困り熊本城の外堀を土砂で埋め立てることになった。道路は至る所で陥没し、作業車両がはまり込んでしまうことも。熊本市手取本町の電車通りも泥土の山。駐留アメリカ軍のブルドーザが排土作業に活躍。熊本市公会堂は救援物資が次々と運ばれてきた。大江町渡鹿では濁流の直撃を受けた老人施設弘済寮で保安隊が救助と行方不明者の捜索にあたった。立町(現:坪井4丁目)では通りに山と積まれた泥土が異臭を放ち、人々はその中での暮らしを余儀なくされた。
7月9日、白川橋が仮設橋は幅2m足らずで、人々は恐る恐る渡り始めた。白川下流域、見渡す限りの水田地帯も泥土で覆いつくされた。
7月13日、子飼橋の仮設橋を設置し、仮設橋梁工事は保安隊が実施。
参考文献
1)平成15年6月、水防災行事実行員会、S28.6.26白川大水害の記録